カフェの迷惑客から見えたダークサイドの誘惑

カフェで作業をしていた。
コンセントのある席に座り、
少し落ち着いて文章を書こうとしていた。
ところが、近くの席にいた男性が、
ずっとウェブ会議をしていた。
しかも、短いやり取りではない。
ほとんど一人で、延々としゃべっている。
声が大きい。
話が長い。
周囲への配慮も、あまり感じられない。
こちらはカフェにいる。
相手もカフェにいる。
けれど、その人だけが、まるで自分のオフィスの会議室にいるように振る舞っている。
最初は、少し気になる程度だった。
しかし、それが続くと、
だんだん内側に黒いものが湧いてくる。
「うるさいな」
「少しは周りを考えろよ」
「なぜこちらが我慢しなければならないのか」
そんな感情が、少しずつ強くなっていった。
もちろん、実際に何かをするつもりはない。
けれど、心の中ではかなり荒れていた。
そのとき、ふと思った。
これは、かなりダークサイドに近い感情ではないか、と。
怒りは、正義感の顔をして現れる
怒りという感情は、厄介だ。
最初から「悪いもの」として現れるわけではない。
むしろ、多くの場合、怒りは正義感の顔をして現れる。
今回でいえば、こうだ。
カフェは公共の場所である。
大声で長時間ウェブ会議をするのは、周囲に迷惑である。
だから、不快に感じるのは自然なことだ。
ここまでは、別に間違っていない。
問題は、その先にある。
「迷惑だ」と感じるだけなら、まだ観測である。
しかし、そこから、
「思い知らせてやりたい」
「恥をかかせてやりたい」
「何か罰が当たればいいのに」
という方向へ進むと、感情の質が変わってくる。
正義感のように見えていたものが、
いつの間にか、制裁欲に変わっている。
そして、その制裁欲には、妙な甘さがある。
ダークサイドの力は、即効性がある
スター・ウォーズに出てくるダークサイドは、
怒り、恐れ、憎しみと深く結びついている。
それは単なる悪ではない。
人間の内側にある、非常に強いエネルギーの象徴のようにも見える。
怒りに身を任せると、行動は早くなる。
迷いが減る。
自分が強くなったように感じる。
相手を睨む。
強い言葉をぶつける。
相手が気まずそうにする。
その瞬間、こちらは少し勝ったような気分になる。
これが、怒りの甘さだと思う。
怒りは、すぐに達成感をくれる。
自分が無力ではないと感じさせてくれる。
相手に影響を与えたという感覚を与えてくれる。
だから、甘い。
しかし、その甘さは長く続かない。
後に残るのは、疲労感だったり、自己嫌悪だったり、妙な後味の悪さだったりする。
怒りで得た勝利は、
勝利に見えて、実は心に借金を残す。
ライトサイドの勝利は、地味で遅い
一方で、怒りに反応しないことは、あまり気持ちよくない。
その場では、何も解決していないように感じる。
相手はうるさいままだ。
こちらだけが我慢しているようにも感じる。
だから、ライトサイドの選択は地味だ。
席を移動する。
イヤホンをつける。
店員さんに相談する。
相手を直接裁こうとしない。
自分の時間と集中力を守る。
これらは、派手な勝利ではない。
相手を打ち負かすわけでもない。
相手が反省するとも限らない。
周囲から拍手されることもない。
けれど、後から静かに残るものがある。
「あのとき、自分は同じ土俵に降りなかった」
という感覚だ。
これは、怒りの快感とは違う。
もっと遅く、もっと静かな達成感である。
ダークサイドが即効性の快感だとすれば、
ライトサイドは遅効性の誇りなのかもしれない。
相手を変えることに、自分の心を使わない
今回の迷惑客を見ながら、
私は途中で少し考え方を変えた。
この人をどうにかしたい。
この人に分からせたい。
この人の態度を変えたい。
そう思っている間、
私の意識は、その人に奪われていた。
本来、自分はカフェで文章を書きに来ていた。
考えるために来ていた。
自分の時間を使うために来ていた。
それなのに、気づけば、
目の前の迷惑な人間のことばかり考えている。
これは、かなり損をしている。
相手は、ただ大声で話しているだけかもしれない。
しかしこちらは、その存在に心を占領されている。
相手を変えることに心を使いすぎると、
自分の時間まで相手に渡してしまう。
これは、日常生活でも、職場でも、よく起きる。
無神経な人。
空気を読まない人。
責任を取らない人。
周囲に負担をかける人。
そういう人に対して怒るのは、自然なことだ。
しかし、その怒りに長く住み続けると、
相手は目の前にいなくても、自分の中に居座り続ける。
それが一番もったいない。
ヨーダの洞窟モード
このとき、ふと浮かんだのが、
「ヨーダの洞窟モード」という感覚だった。
ヨーダは、表舞台で怒りに任せて戦い続ける存在ではない。
静かな場所に身を置き、世界の動きを見ている。
もちろん、何も見えていないわけではない。
むしろ、見えている。
だが、すべてに反応しない。
すべてを正そうとしない。
すべての相手を倒そうとしない。
必要なことだけを見る。
必要なときだけ動く。
それ以外は、静かに観測する。
今回のカフェでも、私はこれでいいのだと思った。
目の前の人がうるさい。
それは事実だ。
だが、その人を裁くことに自分のエネルギーを使う必要はない。
必要なら店員さんに相談すればいい。
無理なら、イヤホンで遮断すればいい。
それでもだめなら、その空間を外れればいい。
大事なのは、相手を成敗することではなく、
自分の心を相手に奪わせないことだ。
怒りを消すのではなく、観測する
怒りを持ってはいけない、とは思わない。
怒りは、人間にとって自然な感情である。
理不尽なこと、不快なこと、無神経な振る舞いに対して、怒りが湧くのは当然だ。
問題は、怒りそのものではない。
怒りに、自分の行動を支配させること。
怒りが気持ちよくなり、その甘さに酔ってしまうこと。
そこに問題がある。
だから、怒りを無理に消す必要はない。
「ああ、今、自分は怒っている」
「制裁したい気持ちが出ている」
「これは、かなりダークサイドに近いな」
そう観測するだけで、少し距離ができる。
怒りと自分が、一体化しなくなる。
この距離が、とても大事なのだと思う。
迷惑客は、触媒だった
面白いことに、しばらくすると、
私はその迷惑客に対して少し違う感覚を持ち始めた。
もちろん、うるさいものはうるさい。
迷惑であることに変わりはない。
しかし、その人がいたからこそ、
自分の中にある怒りの動きを観測できた。
怒りの甘さ。
制裁欲の快感。
反応しないことの難しさ。
そして、自分の心を守るということ。
それらが、かなりはっきり見えた。
そう考えると、その人は単なる迷惑客ではなく、
自分の内側を映すための触媒だったのかもしれない。
日常には、こういう小さな観測材料がある。
電車の中の無礼な人。
職場の無責任な人。
カフェで大声で話す人。
道をふさぐ人。
店員さんに横柄な人。
そういう人たちは、たしかに不快だ。
しかし同時に、
自分の内側に何が起きるのかを見せてくれる存在でもある。
もちろん、感謝まではしなくていい。
そこまで聖人になる必要はない。
ただ、こうは思える。
「なるほど。自分の中には、こういうダークサイドがあるのだな」
それを見られただけでも、少し意味はあった。
怒りは甘い。だからこそ、距離を置く
怒りは甘い。
すぐに力をくれる。
すぐに正しさを感じさせてくれる。
すぐに相手を裁きたくなる。
しかし、その甘さに身を任せると、
自分の時間も、心の静けさも、相手に渡してしまう。
本当に守るべきものは、相手への勝利ではない。
自分の集中力。
自分の静けさ。
自分の時間。
自分の航路。
そこを守ることの方が、ずっと大切だ。
迷惑な人を見たとき、
私たちはつい、相手を変えたくなる。
けれど、変えるべきなのは相手ではなく、
自分と怒りとの距離なのかもしれない。
怒りを消すのではない。
怒りに飲まれるのでもない。
ただ、観測する。
そして、必要以上に反応しない。
それが、日常の中でダークサイドに落ちないための、
小さな修行なのだと思う。
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