組織の中で見えてきた違和感
私は長い間、会社という組織の中で働いてきました。
そこには明確な評価基準があり、役割があり、そして秩序がありました。
一見すると、それは非常に合理的で、よくできた仕組みに見えます。
しかし、長くその中にいると、ある違和感を覚えるようになります。
それは、「価値」が本質とは異なる形で評価されているのではないか、という感覚です。
この違和感は、単なる職場への不満ではありません。
むしろ、価値とは何かを考える中で、避けて通れない問いでした。
そのことは、[価値とは何か──なぜ人はそれを信じてしまうのか] にもつながっています。
本来の価値と評価のズレ
本来、価値とは成果や本質的な貢献によって測られるべきものです。
しかし現実には、
- 声の大きさ
- 立場
- 空気を読む力
- 目立ちやすさ
といった要素が、少なからず影響を与えています。
人と人が関わる以上、感情や関係性が入り込むのは自然なことです。
ただ、それが積み重なることで、「本来の価値」と「評価される価値」との間にズレが生じていきます。
ここで起きているのは、単なる評価の誤差ではなく、価値そのものの見え方のゆがみなのだと思います。
評価される行動が優先される構造
そのズレは、多くの場合、意識されることなく固定化されていきます。
気づけば、本質的に重要なことよりも、評価されやすい行動が優先されるようになります。
本来は改善されるべき問題が、見えないまま放置されることもあります。
あるいは、本質的な提案よりも、波風を立てない選択が選ばれることもあります。
これは誰か一人の問題というより、組織という構造そのものが持つ性質なのかもしれません。
人は制度の中に長くいるほど、その制度に適応した振る舞いを覚えていきます。
人は環境に適応してしまう
こうした状況の中で、人は次第に「何が価値なのか」を見失っていきます。
評価されることが価値なのか。
それとも、本当に意味のあることをすることが価値なのか。
この問いは、組織の中にいると曖昧になります。
なぜなら、人は環境に適応するからです。
評価される行動を繰り返すうちに、それが「正しいこと」だと感じるようになっていきます。
そうして、いつの間にか自分の感覚そのものが環境に合わせて書き換えられていきます。
この感覚は、[信じるとは何か──人はなぜ錯覚するのか] にもつながっています。
人は、真実だから信じるというより、繰り返し触れたものや、その場で自然とされている前提を信じるようになるからです。
ここにも存在する「信じる構造」
ここにもまた、“信じる構造”が存在しています。
私はその中で、何度も立ち止まる必要がありました。
これは本当に価値があるのか。
それとも、ただ評価されやすいだけなのか。
その問いを持ち続けることは、決して楽なことではありません。
むしろ、時に摩擦を生み、理解されないこともあります。
けれど、その問いを手放した瞬間に、自分自身の感覚まで組織に吸収されてしまうような怖さもありました。
感覚が鈍っていくというリスク
しかし、その違和感を無視し続けると、やがて自分自身の感覚が鈍っていきます。
何が本質で、何がそうでないのか。
その境界が見えなくなってしまいます。
これは、組織に従うこと自体が悪いという話ではありません。
ただ、組織の評価軸だけで世界を見るようになると、自分の中にあったはずの感覚まで薄れてしまう。
そこに一つのリスクがあるのだと思います。
価値を考えることは、制度を否定することではなく、自分は何を価値だと思っているのかを見失わないことなのかもしれません。
ビットコインとの対比で見えたもの
ビットコインに触れたとき、私はこの構造を別の形で見ました。
そこには、組織的な評価基準も、肩書きも存在しません。
あるのは、参加者それぞれの判断と選択だけです。
そしてその集積が、価格として、価値として現れます。
もちろん市場にも歪みはあります。
感情もありますし、過熱も恐怖もあります。
それでも、少なくとも会社組織のように、誰かの立場や空気によって一方的に価値が固定される構造とは少し違います。
その意味でビットコインは、私にとって単なる投資対象ではなく、価値がどのように形成され、どのように信じられていくのかを観測する対象でもあります。
この点は、[私はビットコインで何を観測しているのか] にも書きました。
価値は一方的に決まるものではない
そこには歪みがない、とは言いません。
むしろ市場にも、人間の感情による歪みは存在します。
しかし少なくとも、誰かが一方的に価値を決める構造ではありません。
私はこの違いに、強い対比を感じました。
組織の中での価値は、しばしば上から与えられます。
一方、市場の中での価値は、多数の判断のぶつかり合いの中から立ち上がってきます。
どちらにも人間の不完全さはあります。
けれど、その不完全さの現れ方はかなり違う。
私はその違いを見ているのだと思います。
二つの世界を見たからこそ分かること
組織の中で形成される価値。
市場の中で形成される価値。
そして、そのどちらにも関わる人間の存在。
どちらが正しいかではなく、その違いを認識することが重要なのだと思います。
会社という世界の中では、評価が先にあり、それに人が合わせていくことがあります。
一方でビットコインの世界では、人それぞれの判断がぶつかり合い、その結果として価値が見えてきます。
こうした違いを見ていく中で、私は改めて、価値は固定されたものではないと感じるようになりました。
価値は揺らぎ続けるもの
私はこれまで、会社という世界の中で価値を見てきました。
そして今は、ビットコインという現象を通して、別の形の価値を観測しています。
その両方を見たとき、初めて見えてくるものがあります。
それは、価値とは決して固定されたものではなく、常に揺らぎ続けるものだということです。
制度の中で揺らぐ価値。
市場の中で揺らぐ価値。
そして、自分の中でも揺らぐ価値。
その不安定さを前提にした上で、それでも何を信じるのか。
その問いは、[価値とは何か──なぜ人はそれを信じてしまうのか] や、[信じるとは何か──人はなぜ錯覚するのか] と、やはりつながっていきます。
自分は何を選ぶのか
そしてその揺らぎの中で、自分は何を選ぶのか。
その問いから逃げないことが、私にとっての一つの指針になっています。
組織の評価に流されるのか。
市場の熱狂に流されるのか。
それとも、自分なりの感覚を持ちながら見続けるのか。
簡単な答えはありません。
それでも、問いを持ち続けること自体に意味があるのだと思います。
怒りや違和感も、本来はただ排除するためのものではなく、自分の感覚を守るためのサインなのかもしれません。
そのことは、[怒りは、排除のためではなく、自分を守るために使う] にもつながっています。
このブログは、そうした揺らぎの中で、自分が何を見て、何を感じ、何を選ぼうとしているのかを記録する場所でもあります。
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