人はなぜ、相手がずっこけると快感を覚えるのか|優越感と安心感の正体

洞察・思考

相場を見ていると、自分の中にある思わぬ感情に気づくことがある。

ある日、アメリカの雇用統計をきっかけに、株式市場では大きな売りが広がった。それまで強い上昇を続けてきたAI・半導体関連株を中心に、過熱感のあった銘柄や指数が大きく下落した。週明けの日本市場でも、日経平均は大きく下げた。一方で、ビットコインは反発していた。

それを見た瞬間、私は正直に言えば、少し痛快さを感じた。日経平均が強く、ビットコインが重い時期が続いていたこともある。AI・半導体関連に偏っていたとはいえ、株式市場の強さを見ながら、どこかで面白くない気持ちを抱えていたのだと思う。

だから、日経平均が大きく下げ、ビットコインが反発した時、私は一瞬、胸の奥で「やはり、そう簡単にはいかないだろう」という感情を覚えた。

しかし、冷静に考えれば、日本経済が本当に崩れることなど望んでいない。日経平均が本格的に壊れれば、社会全体にも影響が出る。自分の生活にも、仕事にも、資産にも、間接的に影響があるかもしれない。つまり、私は日経平均そのものが崩れることを望んでいたわけではない。

では、なぜあの瞬間、痛快さを感じたのだろうか。今回は、その感情を観測してみたい。

他人の成功を見ると、人は比較を始める

人は、他人の成功を見ると、無意識に自分と比較してしまう。

あの人はうまくいっている。あの市場は上がっている。あの投資をしている人たちは儲かっている。あの選択をした人たちは正しかったのかもしれない。

そう感じた瞬間、自分の現在地が揺さぶられる。資産、収入、地位、評価、人気、選択、人生の進み方。比較の対象はいくらでもある。

頭では「人は人、自分は自分」と分かっている。しかし、感情はそれほど単純ではない。自分が選ばなかった道がうまくいっているように見えると、人はどこかで不安になる。

自分の選択は間違っていたのではないか。自分だけが取り残されているのではないか。そういう感情が、静かに心の中へ入り込んでくる。

この感情については、以前の記事「人はなぜ他人の成功にイライラするのか|ゲームが違うことに気づいた日」でも書いた。他人の成功にイライラする心理と、他人の失敗に安心してしまう心理は、実は同じ根から生まれているのかもしれない。

相手が転ぶと、比較が一時的に止まる

では、相手が失敗した時、人はなぜ快感を覚えるのか。

それは、相手の不幸そのものが嬉しいというより、比較の圧力が一時的に止まるからではないかと思う。

上がり続けていたものが下がる。成功していた人がつまずく。調子よく見えていた人が失敗する。その瞬間、自分を苦しめていた比較対象が弱くなる。

すると、自分の中の不安が少し静かになる。

「ああ、やはりあの人も完璧ではなかった」
「あの選択だけが正解ではなかった」
「自分だけが間違っていたわけではない」

そう感じることで、人は一時的に安心する。快感の正体は、相手の不幸ではなく、自分の不安が沈静化したことなのかもしれない。

世界が公平になったように感じる

人は、成功者が成功し続けることに対して、どこかで不公平感を覚えることがある。もちろん、成功には努力や才能や判断力がある。それは頭では理解している。

しかし、感情の世界では、成功が続きすぎると、そこに偏りを感じることがある。

「なぜ、あちらばかりうまくいくのか」
「なぜ、自分の選んだ側は報われないのか」
「なぜ、あの人たちは当然のように勝っているのか」

そういう感情が積み重なる。そして、調子よく見えていたものが転んだ時、人はどこかで「世界のバランスが戻った」と感じる。

これは、必ずしも相手への強い悪意ではない。むしろ、自分の中にある不公平感が、一時的に解消された感覚に近い。

だからこそ、人は相手の失敗に強く反応する。それは、他人を見ているようで、本当は自分の中のバランス感覚を見ているのかもしれない。

快感の奥にあるのは、優越感だけではない

相手が失敗した時に感じる快感は、単なる優越感だけでは説明できない。もちろん、そこには優越感もある。

「ほら見たことか」
「やはり、そんなにうまくはいかない」
「自分の見方も間違っていなかった」

そう思う気持ちは、誰の中にも多少はあるだろう。しかし、その奥には、もっと弱い感情が隠れているように思う。

劣等感。不安。焦り。承認欲求。自分の選択への迷い。

それらが、相手の失敗によって一時的に静まる。だから、人は安心する。

つまり、相手がずっこけた時に感じる快感は、自分が強くなった証拠ではない。むしろ、自分の中にまだ不安が残っている証拠なのかもしれない。

本当の観測対象は、相手ではない

ここで大切なのは、相手の失敗を責めることでも、自分の感情を否定することでもない。人間である以上、そういう感情が出ることはある。

相手が調子に乗っているように見えた時。自分が置いていかれているように感じた時。自分の選択が報われていないように感じた時。その相手がつまずけば、心のどこかで安心してしまうことはある。

問題は、その感情を正当化し続けることだと思う。

「あいつが失敗して当然だ」
「あの人たちは思い知ればいい」
「自分の方が正しかった」

そこで止まってしまうと、観測は他人への攻撃で終わってしまう。しかし、そこで一歩引いて考えると、見えてくるものがある。

なぜ、自分は安心したのか。なぜ、相手の失敗に反応したのか。なぜ、そこまで比較していたのか。

本当の観測対象は、相手ではない。自分の内側にある比較心であり、不安であり、承認欲求なのだと思う。

怒りや違和感もまた、相手を排除するためだけの感情ではない。以前の記事「怒りは、排除のためではなく、自分を守るために使う」でも書いたように、感情は自分の内側を知らせるサインでもある。

今回の痛快さも、それと同じように、自分の中に残っていた比較や不安を知らせるサインだったのかもしれない。

他人の失敗は、自分を観測する入口になる

私は、日経平均が急落し、ビットコインが反発した場面で、自分の中にある痛快さを見た。しかし、その感情をよく観測していくと、日経平均が下がったこと自体を喜んでいたわけではなかった。

本当に反応していたのは、自分の中の比較心だった。日経平均が強く、ビットコインが重い。その構図を見て、私はどこかで面白くなかった。

自分の選んだゲームではない場所が盛り上がっていることに、感情が揺れていた。そして、相手側に見えていた市場がつまずいた時、その比較が一時的に止まった。だから安心した。

そう考えると、相手がずっこけた時に感じる快感は、他人を笑うためのものではない。自分の中に何が残っているのかを知るための入口になる。

相場に何度も向き合っていると、価格の上下そのものよりも、自分の感情がどう動くかを観測する場面が増えてくる。この感覚は、「投資で痛みを知ると、相場は観測対象に変わる|達観モードという防衛本能」にもつながる。

相場は、資産を増やす場であると同時に、自分の弱さや欲望や不安が映し出される場所でもある。

相場だけの話ではない

これは、相場だけに限った話ではない。会社でも、組織でも、人間関係でも、似たような場面はある。

調子よく見えていた人がつまずいた時。評価されていた人が失敗した時。自分とは違う場所でうまくいっていた人が、急に足元をすくわれた時。人はどこかで、安心してしまうことがある。

その感情は、あまりきれいなものではない。できれば、自分の中にあるとは認めたくない感情かもしれない。

しかし、そういう感情を完全になかったことにしてしまうと、自分の中にある比較心や不安にも気づけなくなる。

人間は、常に立派な感情だけで生きているわけではない。嫉妬もある。優越感もある。安心したい気持ちもある。自分の選択が間違っていなかったと思いたい気持ちもある。

それらを否定するだけでは、自分を観測することはできない。

まとめ

人は、相手の失敗を喜んでいるようで、本当は「自分の不安が消えたこと」に安心しているのかもしれない。

他人の成功にイライラする時も、他人の失敗に快感を覚える時も、根にあるものは似ている。それは比較であり、不安であり、自分の選択への揺らぎである。

だから、相手が転んだ時に感じる快感は、他人を見下す材料ではない。自分自身を観測する材料なのだと思う。

相手がずっこけた時に、自分はなぜ笑ったのか。なぜ安心したのか。なぜ、その相手をそこまで意識していたのか。

その問いを持てるかどうか。そこに、人間心理を観測する価値があるのだと思う。


あわせて読みたい

人はなぜ他人の成功にイライラするのか|ゲームが違うことに気づいた日

怒りは、排除のためではなく、自分を守るために使う

投資で痛みを知ると、相場は観測対象に変わる|達観モードという防衛本能