なぜ気絶投資家は勝つのか|観測者ほど納得できない市場の矛盾

洞察・思考

前回の記事では、投資で痛みを知ると、相場は単なる価格の上下ではなく、観測対象に変わると書いた。

ここでいう「投資の痛み」とは、単に含み損が出ることだけではない。

買った直後に大きく下がる痛み。
底だと思って買ったら、さらに下がる痛み。
怖くなって売った直後に、相場が反転する痛み。
利益が出ていたのに、欲を出して握り続け、含み益が消えていく痛み。
もう少し待てばよかったと後悔する痛み。
逆に、あのとき売っておけばよかったと悔やむ痛み。
自分では冷静なつもりだったのに、実際には恐怖や欲望に動かされていたと気づく痛み。

投資の痛みとは、損失額そのものだけではない。

自分の判断が揺らぐこと。
自分の弱さを見せつけられること。
相場の前では、自分の都合や願望がまったく通用しないと知ること。

そこに、本当の痛みがある。

一度その痛みを知った投資家は、以前のように無邪気には相場を見られなくなる。

上がれば嬉しい。
下がれば悲しい。

それだけでは済まなくなる。

大きく下がったときに、なぜ下がったのかを考える。

誰が売っているのか。
どこにロスカットが溜まっているのか。
市場は何を警戒しているのか。
何がすでに織り込まれていて、何がまだ織り込まれていないのか。

価格の裏側にある構造、需給、心理、時間軸を見ようとする。

つまり、投資家は少しずつ観測者になっていく。

しかし、ここで一つの奇妙な矛盾にぶつかる。

相場を見続け、学び、痛みを知り、構造を考える観測者が苦しんでいる横で、ほとんど何も考えていないように見える人が、結果的に大きく勝っていることがある。

いわゆる「気絶投資家」である。

ここでいう気絶投資家とは、正式な投資用語ではない。

私がこの記事で使っているのは、買った後に細かく相場を見ず、価格変動にもあまり反応せず、結果として長期間保有し続ける投資家のことである。

買ったまま放置する。
相場を見ない。
暴落しても気づかない。
気にしない。
気にならない。
あるいは、気づいても何をすればいいかわからない。

だから売らない。

そして数年後、気づけば大きく資産を増やしている。

これは、相場を観測する人間ほど納得しにくい。

なぜなら、努力して学び、痛みを知り、相場を見続けている人間よりも、何もしなかった人間の方が報われているように見えるからだ。

もちろん、ここでいう気絶投資家は、専業投資家や短期売買を生業にする人の話ではない。

専業投資家が相場を見ず、リスク管理もせず、ただ放置していれば、それは投資法というより破綻への道である。

ここで想定しているのは、一般の会社員、持株会に参加している人、あるいは銀行や証券会社から勧められて金融商品を購入し、その後あまり細かく見ていないような人たちである。

ただし、それが結果として強く作用することがある。

相場を見ない。
余計な判断をしない。
不安になって売らない。
途中で方針を変えない。

その結果、長期的に上昇する資産を持っていた場合、大きな成果につながることがある。

しかし、これは市場の矛盾ではない。

市場の本質である。

市場は、知識量だけを評価しない。
分析能力だけを評価しない。
反応速度だけを評価しない。

市場は、ときに「何もしない能力」を高く評価する。

気絶投資家はなぜ勝つのか

気絶投資家が勝つ理由は、彼らが特別に優秀だからではない。

多くの場合、彼らは市場を深く理解しているわけではない。

金利を読んでいるわけでもない。
為替を見ているわけでもない。
オプションの建玉を確認しているわけでもない。
市場心理を分析しているわけでもない。

それでも勝つことがある。

理由はとても単純である。

売らないからだ。

暴落したときに売らない。
不安なニュースが出ても売らない。
短期的に含み益が減っても売らない。
周囲が騒いでも売らない。

正確に言えば、売らないというより、売るという選択肢にたどり着いていない場合もある。

相場を見ていない。
状況を把握していない。
何をすればいいかわからない。
だから結果的に動かない。

そして、保有していた資産が長期的に上昇する資産だった場合、その「動かなかったこと」が大きな成果につながる。

これは、よく「時間が味方についた」と言われる現象でもある。

ここに市場の皮肉がある。

深く考えなかったことが、結果的に正解になることがある。

観測者ほど苦しむ理由

一方で、観測型の投資家は苦しむ。

相場を見る。
ニュースを見る。
チャートを見る。
金利を見る。
為替を見る。
需給を見る。
過去の暴落を思い出す。
最悪のシナリオも考える。

見えるものが増えれば増えるほど、判断材料も増える。

しかし、判断材料が増えることは、必ずしも心の安定につながらない。

むしろ逆である。

見えるから怖い。
知っているから迷う。
痛みを覚えているから警戒する。
暴落の記憶があるから、楽観だけではいられない。

相場を知らなかった頃は、下がっても意味がわからなかった。

しかし、痛みを知った後は違う。

下落の裏にある危険を想像できる。
需給の崩れを想像できる。
強制決済の連鎖を想像できる。
群衆心理の崩壊を想像できる。

だからこそ、観測者は苦しむ。

何も知らないから動かないのではない。

見えているからこそ、動きたくなる誘惑と戦わなければならない。

市場は努力を見てくれない

投資で残酷なのは、市場が努力を見てくれないことだ。

どれだけ勉強したか。
どれだけ分析したか。
どれだけ苦しんだか。
どれだけ真剣に相場と向き合ったか。

市場は、そこを評価してくれない。

市場が見るのは、最終的な行動である。

買ったのか。
売ったのか。
持ち続けたのか。
退場したのか。

どれだけ深く分析しても、恐怖で売ればそこで終わる。

逆に、どれだけ何も考えていなくても、売らずに残れば勝つことがある。

これは努力家にとっては納得しにくい。

だが、市場は学校ではない。

勉強した人に点数をくれる場所ではない。
真面目な人を必ず報いてくれる場所でもない。
正しく考えた人を必ず救ってくれる場所でもない。

一般社会では、能力以外の要素で評価が左右されることがある。

上司との関係。
組織内での立ち回り。
その場の空気を読む力。
表面的な調整能力。
周囲に合わせる処世術。

そうしたものが、会社や組織では一定の意味を持つことがある。

しかし、市場にはそれが通用しない。

市場にお世辞は通じない。
市場に言い訳は通じない。
市場に社内調整は通じない。
市場に肩書きは通じない。

市場が評価するのは、内面ではなく行動である。

もっと言えば、ポジションと時間である。

何を持ち、どれだけ長く残れたか。

そこに結果がついてくる。

一般社会の精神構造とは、まったく異なる世界なのだ。

実は、ここが私が市場というものを面白いと感じる理由でもある。

市場は冷たい。
だが、ある意味では極めて公平でもある。

持株会という気絶投資

気絶投資を考えるとき、わかりやすい例の一つが持株会である。

会社員として長く働いていると、自社の持株会に加入している人は少なくない。

毎月一定額を積み立てる。
給与から自動的に引かれる。
細かい売買判断はしない。
株価を毎日確認するわけでもない。
忙しければ、そもそも持株会の残高すら見ない。

これは、かなり典型的な気絶投資である。

もちろん、持株会そのものが良い悪いという話ではない。

会社によって状況は違う。
株価の成長性も違う。
制度の内容も違う。
集中投資になるリスクもある。

しかし、長期で見ると、持株会が偶然大きな資産形成につながることがある。

たとえば、ある日本を代表する総合電機系の大企業のような例である。

その会社は、日本を代表する大企業でありながら、かつては重厚長大で、成長性に乏しい古い企業のように見られていた時期もあった。

リーマンショック後には、巨額の最終赤字を計上した時期もある。

その時点で、投資家として冷静に見れば、積極的に長期保有したい会社とは見えなかったかもしれない。

成長性が高いわけではない。
株価も冴えない。
事業も重い。
もっと軽く、もっと成長する企業は他にある。

そう考えて、資金を別の投資先に移す投資家もいたはずである。

しかし、その後、その会社は大きく変わった。

事業構造改革を進め、低採算事業を整理し、社会インフラ、デジタル、エネルギー、モビリティなどを軸に再評価される企業へ変化していった。

かつての重厚長大型企業という印象から、現在ではデジタルやITを成長軸に据える高収益企業として、市場からの見方も大きく変わっている。

その結果、株価も長期で大きく上昇した。

もし、その会社の社員が20年から30年以上前から持株会で積み立て、細かい株価変動を見ず、一度も売却せずに持ち続けていたなら、本人の投資判断とは別に、大きな資産形成につながっている可能性がある。

これは、観測型の投資家から見ると非常に複雑である。

なぜなら、途中の時点では、その会社を効率の良い投資対象とは見なさなかった可能性があるからだ。

成長性が低いと判断した株なら、普通は乗り換える。
資本効率が悪いと見れば、別の投資先を探す。
より成長する業種、より強い銘柄、より期待値の高い資産へ資金を移す。

それが投資家として自然な行動である。

しかし、だからこそ、観測型の投資家はこうした持株会型の大勝ちにはなりにくい。

途中で判断するからだ。
比較するからだ。
乗り換えるからだ。
効率を考えるからだ。

一方で、気絶型の持株会員は違う。

細かく見ない。
比較しない。
乗り換えない。
売らない。

その結果、偶然にも巨大な果実を得ることがある。

この会社だけではない。

ソニーグループのように、一時は大きく低迷しながら、事業構造の変化によって再評価された会社もある。

ファーストリテイリングのように、地方の衣料品店から世界的企業へ成長した会社もある。

キーエンスのように、高収益企業として長期にわたり市場から高く評価され続けた会社もある。

信越化学工業のように、派手さはなくても、世界的な競争力を背景に長期で評価を高めてきた会社もある。

こうした会社に勤め、持株会で長く積み立て、売らずに残った人は、大きな資産形成に成功した可能性がある。

本人は、特別な投資判断をしたわけではないかもしれない。

銘柄分析を重ねたわけでもない。
市場の転換点を読んだわけでもない。
将来の成長シナリオを見抜いたわけでもない。
資本効率を比較して投資先を選び抜いたわけでもない。

ただ、会社に勤めていた。
持株会に入っていた。
給与天引きで積み立てていた。
売らずに持ち続けていた。

その結果、定年前後にはかなりの資産になっていることがある。

これは努力の勝利というより、時間と環境と制度が重なった結果である。

言い換えれば、偶発的な資産拡大である。

もちろん、それを馬鹿にする話ではない。

結果として資産が増えたのなら、それは立派な成果である。

しかし、観測者から見ると、納得しにくいものが残る。

なぜなら、その成果は深い分析や優れた判断の結果というより、売らなかったこと、見なかったこと、動かなかったことによって生まれているように見えるからである。

ここに、この記事の核心がある。

市場は、能力だけを評価しない。

ときには、何も考えずに残った人間に、最も大きな結果を見せることがある。

持株会には光もあれば、影もある

ただし、持株会の気絶投資には、もう一つの側面がある。

それは、完全勝利型とは逆の悲劇である。

長く勤めている会社だから安心。
日本を代表する大企業だから安心。
社会インフラを担う会社だから安心。
まさか潰れることはないだろう。
まさか株価が壊滅的になることはないだろう。

そう考えて持ち続けた株が、ある日、想定外の事態に直面することがある。

日本航空は、その象徴的な例である。

かつて日本を代表する航空会社だった。
国民的な知名度もあった。
普通の感覚では、簡単に消える会社には見えなかった。

しかし、2010年に会社更生手続に入り、上場廃止となった。
既存株主にとっては、極めて厳しい結果となった。

もし、そこで持株会や長期保有で株を持ち続けていた人がいたなら、その痛みは相当大きかったはずである。

東京電力もまた、別の意味で強烈な例である。

かつての東京電力は、日本を代表する電力会社であり、社会インフラを担う巨大企業だった。

電力会社という事業の性質上、安定株の代表のように見えていた時期もある。

しかし、2011年の福島第一原発事故によって状況は一変した。

株主にとっては、それまで想定していた「安定」「安全」「堅実」という前提が根底から揺らいだ出来事だった。

会社そのものがなくなったわけではない。

しかし、株主価値という観点では、持ち続けていた人に大きな痛みを与えた歴史的な事例である。

ここに、持株会型の気絶投資の怖さがある。

勝つときは、何も考えなかったことが勝因に見える。
しかし、負けるときも、何も考えなかったことが敗因になる。

長く勤めている会社だから大丈夫。
有名企業だから大丈夫。
日本を代表する会社だから大丈夫。
社会に必要な会社だから大丈夫。

そうした感覚は、必ずしも株主を守ってくれない。

企業として必要とされることと、株主が報われることは同じではない。

会社が存続することと、株式価値が守られることも同じではない。

ここを混同すると危険である。

持株会の成功例だけを見ると、気絶投資は素晴らしいように見える。

しかし、失敗例まで含めて見ると、話はまったく変わる。

気絶投資は、勝てば時間を味方にした成功談になる。
負ければ、危険を見ないまま沈んだ悲劇になる。

この両方を見なければ、気絶投資の本質は見えてこない。

気絶投資家を持ち上げすぎてはいけない

だから、気絶投資家を持ち上げすぎてはいけない。

気絶投資家が勝つことがあるからといって、何も考えないことが優れているわけではない。

持株会の例でも同じである。

たまたま勤めていた会社が長期的に大きく成長した。
たまたま制度を通じて積み立てていた。
たまたま途中で売らなかった。
たまたま退職前後に大きな含み益になっていた。

そういうことはある。

しかし、それは再現性のある投資判断だったとは限らない。

別の会社であれば、結果はまったく違ったかもしれない。
長く低迷したままだったかもしれない。
不祥事や事故で株価が壊れたかもしれない。
経営破綻や大規模な資本政策で、株主価値が大きく毀損したかもしれない。

だから、気絶投資を無条件に称賛するのは危険である。

そもそも、最初から中身のない商品や、過剰なレバレッジ商品、明らかに持続性のない投機対象を持っている場合は、この話の比較対象にはならない。

それは気絶投資の是非以前に、最初の選択の問題である。

この記事で考えたいのは、もう少し難しいケースである。

長期的には成長する可能性がある資産を持っている。
簡単に消えてなくなるものではない。
それなりに市場で評価されている。
ただし、常に順調に上がるわけではない。

そういう資産であっても、相場は大きく下がることがある。
数年単位で報われないこともある。
世間から疑われる時期もある。
一時的に「もう終わった」と言われることもある。

そのときに、何も見ていない人は気絶したまま持ち続ける。

一方で、観測者は違う。

下落の理由を見る。
市場の空気を見る。
資金の流れを見る。
規制や金利や需給を見る。
自分の前提が崩れていないかを確認する。

同じように持ち続けていたとしても、中身はまったく違う。

気絶型は、見ていないから持っている。
観測型は、見た上で持っている。

ここを混同してはいけない。

気絶して勝ったように見える人がいるとしても、その勝利が再現性のある判断だったとは限らない。

たまたま良い資産を持ち、たまたま見ずに済み、たまたま売らなかった。

その結果として勝つことはある。

しかし、長く市場に残るためには、自分が何を持っているのかを理解している必要がある。

なぜなら、相場は一度の暴落で終わらないからだ。

何度も揺さぶられる。
何度も疑われる。
何度も恐怖を試される。

そのたびに、ただ見ないだけで耐えられる人もいる。

だが、それは強さというより、偶然に近い場合がある。

本当に重要なのは、持っている資産の前提が崩れていないかを確認しながら、それでも動かない判断ができるかどうかである。

無知による静止と、理解による待機は違う

気絶型と観測型の違いは、外から見るとわかりにくい。

どちらも、結果として「売らない」ことがあるからだ。

しかし、中身はまったく違う。

気絶型は、見ていないから動かない。
観測型は、見た上で動かない。

気絶型は、危険の意味を理解しないまま通過する。
観測型は、危険の意味を理解しながら耐える。

気絶型は、資産の質を判断していない場合がある。
観測型は、資産の質を確認し続ける。

気絶型は、運よく生き残る資産を持っていれば勝つ。
観測型は、生き残る資産かどうかを観測しながら残る。

この差は大きい。

同じ「何もしない」でも、無知による静止と、理解による待機は違う。

一見すると、結果は同じに見える。

しかし、長く投資を続けるほど、この違いは重くなる。

相場は、何度も暴落する。
市場環境は変わる。
金利も変わる。
規制も変わる。
資金の流れも変わる。
人々の熱狂も冷める。

その中で、ただ気絶しているだけでは危険な場面もある。

大事なのは、動かないことそのものではない。

動かない理由である。

本当に難しいのは、見えているのに動かないこと

投資で難しいのは、何もしないことだと言われる。

これは本当にその通りだと思う。

買うことよりも難しい。
売ることよりも難しい。
分析することよりも難しい。

しかし、もっと難しいことがある。

見えているのに、何もしないことだ。

下落を見ている。
不安材料も見えている。
市場心理の悪化も感じている。
過去の暴落も思い出している。
最悪のシナリオも頭にある。

それでも、自分が保有している理由が崩れていないなら動かない。

これは気絶ではない。

逃避でもない。
楽観でもない。
思考停止でもない。

観測した上での待機である。

この状態にたどり着くのは簡単ではない。

なぜなら、観測者は情報を得るほど、不安にも近づくからである。

知らなければ怖くないことも、知れば怖くなる。

見なければ平気なことも、見れば揺れる。

だから、観測者が動かないためには、単なる鈍感さでは足りない。

自分が何を持っているのか。
なぜ持っているのか。
どの時間軸で見ているのか。
何が起きたら前提が崩れるのか。

そこを理解している必要がある。

目指すべきは気絶ではない

気絶投資家が勝つことはある。

それは事実である。

だが、だからといって気絶を目指すべきだとは思わない。

目指すべきは、見ない投資家になることではない。

見た上で、必要以上に動かない投資家になることだ。

相場を見る。
痛みも知る。
リスクも見る。
不安材料も確認する。
それでも、保有する理由が崩れていないなら持ち続ける。

これは、気絶型とは違う。

無知による握力ではなく、理解による握力である。

市場は能力だけを評価しない。
努力だけを評価しない。
知識量だけを評価しない。

しかし、長く市場に残るためには、やはり観測する力が必要になる。

なぜなら、気絶して勝てるのは、持っているものが生き残り、なおかつ自分が途中で退場しなかった場合だけだからだ。

生き残る資産かどうか。
自分が耐えられるリスクかどうか。
時間軸が合っているかどうか。
前提が崩れていないかどうか。

それを確認し続けるのが、観測者の仕事である。

市場は残った者にだけ結果を見せる

投資の世界では、短期的には理解しがたいことが何度も起きる。

勉強している人が負ける。
何も考えていないように見える人が勝つ。
警戒している人が機会を逃す。
楽観していた人が大きく報われる。

こうした現象を見ると、投資に知識など不要ではないかと思うこともある。

しかし、そうではない。

市場は、ときに無知な静止を報いる。
だが、永遠に無知を守ってくれるわけではない。

ソニー、ファーストリテイリング、キーエンス、信越化学工業のような長期成功例を見れば、気絶投資の強さが見える。

一方で、日本航空や東京電力のような歴史的な事例を見れば、気絶投資の怖さも見える。

どちらか一方だけを見てはいけない。

勝った気絶投資家は、時間を味方につけたように見える。
負けた気絶投資家は、危険を見ないまま時間に飲み込まれたようにも見える。

同じ「見ない」「売らない」でも、結果は天と地ほど違う。

だから、長く残るためには、やはり観測が必要になる。

何を持つのか。
なぜ持つのか。
どこまで耐えるのか。
どの条件が崩れたら考え直すのか。

そこを持たずに気絶するのは、投資というより運任せに近い。

一方で、観測しすぎて毎回動いてしまえば、それもまた市場に振り回される。

だから難しい。

相場は、見るべきである。
しかし、見すぎて壊れてはいけない。

考えるべきである。
しかし、考えすぎて余計な行動をしてはいけない。

動けるように準備すべきである。
しかし、動かなくてよい場面では動かない。

この矛盾の中に、長期投資の難しさがある。

気絶投資家が勝つ理由は、売らなかったからである。

だが、本当に強い投資家とは、見ていないから売らない人ではない。

見えているのに、売らない理由を持っている人である。

何もしないことは難しい。

だが、もっと難しいのは、見えているのに何もしないことである。

市場は能力だけを評価しない。

しかし、最後まで残るためには、やはり観測する力が必要になる。

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